「教育改革の幻想」

この本は、「ゆとり教育」に反対した苅谷氏の論点がよくわかる本である。
この本で教えられた点がいくつかある。
1. 戦前の日本は「教師中心」の教育だったが、日本でも戦後すぐのころは、アメリカ流の「子ども中心主義」の教育があったこと。それが1950年代後半から60年代初頭にふたたび「受験競争」の時代がやってきた。
2. 子ども中心主義の教育の思想が実践とともに最も幅広く展開したのはアメリカにおいてであった。20世紀初頭に主に白人の富裕層の子どもたちに選りすぐりの教師、スタッフという恵まれた環境での実験ではうまくいった。
3. 制度として子ども中心主義の実験をした例が1980年代後半からカリフォルニア州で始まり、結果としては失敗したこと。その結果として「バランスのとれた教授法」が指向されたこと。
また、苅谷氏は子ども中心主義の教育こそがこれからの教育の目指す方向という時に、社会認識と教育を結びつける日米共通の「常識」が示されている、としている。
引用始まり
第一に、情報化の進展は、知識を陳腐化させるスピードを速めるから、知識を与えることの重要性は減るという論理である。古い知識はすぐに役立たなくなるという前提が、この論理を支えている。
第二に、それゆえ、知識を与えることより、情報収集の方法を教えることのほうが価値がある、という考えがこれからの教育の要点として示されている。ここには、情報収集の方法さえ身につけば、問題解決能力や創造性を発揮できるようになるという前提が含まれている。
第三に、生涯学習の時代になれば、学び直しができるようになる。だから、学校時代には学び方さえ身につけておけばよいという論理である。ここには、すぐに陳腐化する知識よりも学び方が学校卒業後の学習にとってより重要であるという判断が含まれている。
これらの論理を受け入れると、知識を伝達する教育よりも、「自ら学び、自ら考える力」を育成することが、これからの社会にとって重要な役割であるとの考えが説得的に見えてくる。しかし、それぞれの前提がどれだけ正しいのかは、だれも検証しない。
引用終わり
市川氏の「学ぶ意欲の心理学」の中で、苅谷氏が「俗流教育心理学者」が間違った認識を広めていると指摘していると紹介されたのは、この辺のことが念頭に置かれているのであろう。
苅谷氏は、これらの常識について「疑わしい」として反論している。この反論はもっともだと思う。
確かに、「子ども中心の学習」というのは理想として掲げやすい。子どもが自ら進んで学習するし、学習する能力をもつというのを前提に、教師は「援助」する役割に徹するというのは、教育に情熱を傾ける人々に理想として捕えられがちである。そしてそれは子どもへの悪意ではなく善意から生まれる場合が多いだろう。
しかし、そこから「教えてはいけない」「子どもたちがやりたい活動だけをやる」「一斉授業はすべて悪で活動型の授業が善である」という短絡的な思考に陥ってはいけない。これは、市川氏も指摘しているとおりである。
重ねて確認するが、理解するとか覚えるとか創造的に考えるとかの前提として、必要な最低限の知識が必要だ。既有知識を使ってそれと新しい事項を関連をつけることで学習は進む。だから、何も教えないで「考えましょう」とかはありえない。

教育改革の幻想 (ちくま新書)

教育改革の幻想 (ちくま新書)