「学力低下論争」「学ぶ意欲とスキルを育てる」

これまで、認知心理学の知見をもとに、いわゆる「内発的動機付け」を大事にして、「スキーマ」と新しい発見を頭の中で再構築していく「学習」の大事さを理解してきたつもりだった。そして、日本の教育政策も、その方向で動いているはずだと思ってきた。でも、そうすると、知識とそのつながりを学ぶべきなのに、なぜ、教科書があんなに薄くなってしまったのか、よくわからなくなってきた。
そこで、戦後の日本の教育政策を見通してみると、2002年の学習指導要領の開始直前に、「学力低下論争」というのがあったことに気が付いた。2000年ごろといえば、まだ独身で仕事のことしか考えていなかったので、世の中でこんな大論争が起きていたことは、恥ずかしながら知らなかった。
学力低下論争」は、自らもその議論に参加した市川氏が、その概要について整理して、(その時点での)今後の教育の在り方について提言をまとめたものである。
論争の内容自体についてはここで判断するつもりはない。ただ、この中で指摘されていることだが、いわば無条件の「児童中心」「教え込みをしない」というような風潮が1990年代前半に出された「新しい学力観」とともに、小学校を中心に広まっていたことは重要な点だ。
受験という圧力のもと、詰め込みすぎの教育が1980年代に横行していたことへの「反動」ともいえることだが、ここでのボタンの掛け違いは大きい。覚えるだけでなく、もっと考える生徒を育てたいという気持ちはわかるが、認知心理学から言えることは「知識」があってこそ、より深く考えることも可能になるのであって、必要な知識を与えないでただ「考えましょう」は論外のはずだ。
このことは、日本語教育に関するうわべだけの「学習者中心」、その結果として「学習者が勝手に学ぶ」「文法は教えない」というような極端な教授法に対して感じていたわだかまりと共通するものだ。日本での日本語教育も大枠では、日本の学校教育の流れを踏襲しているのだろう。
市川氏は、この本の終章で今後の教育の在り方について、持論を述べているが、私から見ても「まっとうな」印象を受ける。そして、以下のように述べている。
引用はじめ
教育についての私の考え方というのは多分に折衷的なものだ。しかし、折衷的にならざるをえないのは、もともと人間の学習というのが、生物としての進化の過程や、社会の発展の過程でいくつかの様式を持つに至ったという、まさに折衷的なものであるからではないかと考えている。一つの原理で理論化できるほど、学習も教育も単純ではない。
引用終わり
私自身も、学習や教育について、きれいな「一つの原理」を求めていたことを反省しなければいけないと感じた。こうだから、こうなるはずだ・・・と。確かにヒトの営みはそんなに単純ではないし、それに大人ではない、小、中、高校の学校のありかたを考えるとすればなおさらだ。

学力低下論争 (ちくま新書)

学力低下論争 (ちくま新書)

市川氏の終章での「結論」をあらためてわかりやすく構成して、その実践とはどういうものかを伝えようとしたのがこちらの本だ。
旧タイプの「わからない授業」は先生が一方的に詰め込もうとして説明ばかりでわからない、新タイプの「わからない授業」として、基本的な知識を持っていない状態で「自分で考えましょう」という授業をあげている。「教えずに考えさせる授業」こそが理想的な授業であるかのようにこの10年あまり(1990年代のことだろう)言われすぎた、と指摘し、その問題点をあげている。その対案として、「教えて考えさせる授業」を提案している。具体的な例を示していてわかりやすい。
もちろん、ここでの具体例は、小学校の算数などの授業なので、日本語の授業にそのままあてはめられないのは言うまでもないが、その基本的な姿勢は学び取れる。
学ぶ意欲とスキルを育てる―いま求められる学力向上策

学ぶ意欲とスキルを育てる―いま求められる学力向上策