ドラゴン桜--人気の理由

一般にドラゴン桜は、東大受験のテクニックの紹介が世間の目を引くことが多い。しかし、(コミックはわからないが)小説版は、ストーリー性にも面白さが隠されている。
たとえば、本編後半に出てくる、桜木が司法試験を目指したきっかけになった一連の「回想」シーン、そして、自分の境遇に負い目を感じてマイナス思考になってしまった水野さんが、自分の学習記録を振り返ってみて「私・・・頑張った・・・」と気持ちを入れ替えるシーンなど、読んでいて思わず涙腺が緩んでしまう^_^
また、「僕は一番楽な方法で大学に入りたい」と公然と言い放っていたイケメンの大沢君が、水野さんの頑張りに刺激を受けて「理1」から「理3」へと「転向」するあたりも、作者が単に要領のいい東大受験を手放しで礼賛していないことをうかがわせておもしろい。
 さて、話の方は、いよいよ後半に入り、「センター対策」と「東大入試」のための具体的なテクニックの色が濃くなる。その中で、いくつか、検討してみたい点がある。
まずは、桜木の定義する「東大脳」についてだ。「目の前に川がある。川幅は約20メートル。流れは遅く、深さは最大で腰のやや下くらいまでだが、上流にも下流にも橋は見当たらない。向こう岸にどうしても渡りたいとき、どうする?」という問題に対し、「靴を脱いで川の中を歩いて渡る」のを非東大的な思考(小説の中では「私大文型頭」と表現)、「濡れずに楽に渡れる方法を探す」のが東大脳だ、と。ここで桜木は、情報の大切さに対する認識と、昔から生き残ってきた方法論に基づいて問題解決をし、数をこなしていく過程で自分に合ったやり方へと進化させていく--それをオリジナルという、といったとらえ方が東大脳の特徴だと主張する。そして、自分の頭で考えると言って、何の形もないところからスタートして全然先に進まない、それでは何も考えていないのと等しいと言い切る。
さて、どうだろう。これは東大脳をうまく表現したたとえだろう。そして、東大脳の限界をもついた表現でもある。それは、「濡れずに楽に渡れる方法」が世の中に「正解」として存在するという前提があることだ。もし、過去にそのような方法がない場合には、思考停止になるか、「前例がないので、できません」という典型的なお役所発言になる。先日紹介した、東大教授、苅谷先生の講義もこの前提を疑ってかかれという発想から生まれている。ただ、東大生のうち何人が苅谷先生的な発想に出会えるのか不明だ。
もう一つ紹介するのは、センター国語の対策だ。ここでは小説の問題の選択肢だけから正解を判断するというテクニックが登場する。そこで芥山先生が強調することは、「独創的な発想、斬新なアイディア、こういったものは、世間の常識を裏切って生まれてくる。そのためには何が必要か。逆説的ですが、まずは常識を知り尽くすことが必要なのです」という先生の発言に凝縮されている。これ自体は大事な考え方だ。しかし、この逆、常識を知り尽くしたあとに必ず独創的な発想が出てくるかというとそれは真ではない。まあ、百歩譲って、常識を知り尽くすことまでは大学受験の範囲、そのあとの独創的な発想の部分は大学教育の範囲と切り分けるとしても、では、今の大学教育がその機能を果たしているかといえば答えは「否」であろう。だとしたら、常識を知り尽くすことでしか高得点を取れないセンター試験国語対策は、まだ柔軟な高校生の頭を「常識」で固めていくことになるのではないか?つまり、「常識」を疑い、問いを立てるというチャレンジは、センター試験対策をやればやるほど封じられていく。こうして、「常識」でしか考えられない大学生が大量に生み出されていくのが今の(30年前から変わっていない)仕組みだ。
まあ、文句は言ってみたが、これはこの小説に対する批判ではない。「東大脳」を生み出し、「東大脳」をありがたがる我々凡人に向けたメッセージでもある。「ドラゴン桜」は、東大を絶対的な存在ではなく、数ある大学の中で合格対策を立てやすい選択肢の一つととらえなおすという新しい可能性を切り開いてくれた。その意味では感謝すべきであろう。
あと、教授法との関連でいうと、「コーチング」の考え方、中でも「アクナリッジメント」の重要性が強調されている。これについては、別途、勉強していきたい。

小説 ドラゴン桜 メンタル超革命篇 (講談社文庫)

小説 ドラゴン桜 メンタル超革命篇 (講談社文庫)