イリッチ「脱学校の社会」

学校(特に義務教育のそれ)は、あたりまえのように世の中で機能している。だが、はたして、本当に学校は社会に必要な機能なのだろうか?と問われると確たる答えを出す自信はない。イリッチは、今の形の学校は不要であると説き、さらに進んで、学校があるから、子どもたちは自由に学ぶ権利を奪われていると主張している。そして、教えるという視点でも、免状を持たない人間に「教える」という行為を禁ずることを法的に認める役割をもはたしている。
イリッチの描く「脱学校」の社会は、だれでも、いつからでも学習しようと思った時に学べる社会である。一方、自分の知っていることを他の人と分かち合いたいと思う人からその権利を奪わない。そう思う人と、学びたいと思う人をマッチングさせるネットワークを作ることを構想する。そして教室という枠を取り払い、だれでも「この指とまれ」で問題提起をして議論しあう場を保証する。この社会では、今の義務教育のような、パッケージ化された「知識」を注入するような教育とは無縁だ。識字教育を「人間解放」と位置付けたフレイレの主張と重なる部分もある。
このような提起が1970年代になされていたことに特にすばらしさを感じる。イリッチは本書の中で「学習のための網状組織」learning webs という概念を提案している。今でこそ、インターネットが普及してwebというのは珍しくないが、本書が書かれたのは、インターネット以前の社会だ。
そして、現実に、学校という形にとらわれない「学び」がネット上に普及してきている。日本にいながら、年齢に関係なく、アメリカの大学の名講座を受講でき、レポートを出したり、議論に参加したりできる。また、「知恵袋」のような形で、だれでも質問し、別の場面では、自分の持っている知識を広めることもできる。動画サイトを使えば、自分の「講義」を発信することもできる。
ただし、イリッチの指摘の本質は、学校に象徴される現代の社会制度そのものだ。いくらインターネットが発達しても、各種「制度」が人間を支配する構造が変われない限り、「脱学校の社会」は見えてこない。

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)

脱学校の社会 (現代社会科学叢書)